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感想文

本や映画や、いろんなことの感想文を書いています。

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全員リレーやドッジボールについて思うこと

子供の頃から運動が苦手な私は、リレーとか、長なわとびとか、ドッジボールとか、ソフトボールとか、自分ひとりの失敗が、あからさまに、わかりやすく目に見えてチームの負けにつながる競技が、昔から本当に嫌だった。

 

今日もまた自分のせいでみんなの足を引っ張ってしまう、自分さえいなければこのチームは勝てるはずなのに、自分さえいなければ・・・。だれもそんなこと口に出してはいわないけれど、絶対そう思ってるに違いない。今日もねむれないさめのせいで勝てないと。

 

全員リレーでは、足の速い子は『自分がいくら頑張ったって、ねむれないさめにバトンが回ったらどうせ抜かされるんだし、頑張ったって意味ない』と思っていないわけはなかった。だって自分が足の速い子の立場だったら、そう思わずにはきっといられない。

 

ソフトボールだって、『ねむれないさめのかわりに自分がもう1回バッターをやれば、ヒットを打ってランナーをホームに返せるのに。ねむれないさめじゃどうせゴロになってアウトだし、この回も終わったな』と、思われていないはずがなかった。だってもし自分がうまい子の立場だったら間違いなくそう思って、グローブをはめて守備に向かう準備を始める。

 

ドッジボールだってそう。『どうせすぐ当てられる』『ボールも投げられない』私は、最初から『もと外野(スタート時に線の外にいる人のこと。うん十年ぶりにこの言葉思い出した)』に回るか、運悪く中スタートの時だって、すぐにボールに当たって外に出て、そして誰かが中に入れるときになったら、私ではなく『もと外野』だった子が中に戻って、私はゲームが終わるまでずーっと外だ。そして線の外に飛んできたボールを拾って、中にいる、ドッジボールの強い男子に投げ渡す。それだけ。

 

私にとってドッジボールという球技は『線の外に転がったボールを拾いにいって、線の中にいる男子に渡す』競技だった。ドッジボールに似た球技で『中当て』というのがある。中当ては、チーム戦じゃなく個人競技で、四角の中の人にボールを当てる。当たった人は外に出る。そんなルール。私はなぜかこの、ドッジボールに似た球技、中当ては嫌いじゃなかった。むしろ好きな方だった。だって当てられても誰にも迷惑をかけないから。

 

私がドッジボールが嫌いだった理由は、ボールに当たるのが怖いとか痛いとかそんな理由じゃない。自分のせいでチームに迷惑をかけている肩身の狭さ、迷惑をかけるだけで一切役に立てないみじめさ、ハナからあてにもされない劣等感、頑張って投げてみることも認められていない屈辱感、それらの感情で心がいっぱいになりながら、それでもその場を離れることも許されず、ボールの行方を目で追っていなければいけない。線から出たボールを拾いにいくために。

 

ドッジボールをするたび、そんな思いをする子供がいたことを、先生は知っていたのだろうか。

 

1人ずつ順番に跳んでいく長縄跳びがある。何回連続で跳べたか、誰も引っかからずに何回まで続けられるか、クラス全員で記録を作り上げていく。そんな長縄で、自分の番が回ってきたときのプレッシャー。あれから何十年も経って、この文章を書いている今ですら、思い出すと、手にじんわりと汗がにじんできて、鼓動が早くなり、息苦しくなってくる。それほどまでのプレッシャーなのに、運よく無事に跳び終え、その後、誰かが引っかかるのを見ると、みんなと一緒になって「あーあ」とため息をつく。そして『引っかかったのが自分じゃなくてよかった』と、誰にも気づかれないように、ほっとする。

 

 

私は自分が運動が苦手なのを知っていたし、クラスのみんなも、私が運動ができないことを知っていた。

 

 

みんな違ってみんないい?

誰もが特別なオンリーワン?

 

そんなの理想論だ。

 

 

誰だって勝ちたい。子供ならなおさら。

 

 

最近、運動会で、全員リレーの代わりにムカデ競争をやる学校が増えてるように思う。

 

いいなあと思う。

 

ムカデなら、誰がつまずいだのか、誰のせいでムカデが止まってしまったのか、誰にもバレないしわからないから。もしかしたら本人も、自分のせいでムカデが倒れてしまったことを、わからないで済んでいるのかもしれない。

 

 

 

先日見に行った、子供が通っている小学校の運動会。プログラムの最後、運動会の1番のクライマックスは、高学年の選抜選手によるリレーだ。とても迫力があり、応援も、歓声も、毎年、運動会1番の盛り上がりを見せる。

 

今年もとても盛り上がった。全員、最後まで全力で走った。彼らが当日まで一生懸命練習してきたことを思うと、やっぱり感動して、こみあげるものがあった。

 

しかし。全員がゴールした後、1チームの失格を告げるアナウンスが流れた。バトンを渡すとき、その受け渡しゾーンのラインを越えてしまった子がいたそうだ。見ていた私は全く気が付かなかったけれど、きっと越えてしまった本人にはその自覚があったと思う。

 

自分のミスで、今日まで一生懸命練習を重ねてきたチーム全員の頑張りを、無駄にしてしまったという自覚が。

 

そして私にはわからなかっけれど、きっと同じチームの子たちも、応援していた子たちもみんな、気づいていたと思う。

誰のせいで、自分のチームが失格になったのか。

自分の必死の頑張りを、無駄にしたのが誰なのか。

 

 

その経験は、その思いは、彼らにとって本当に必要なものなんだろうか?

彼らを成長させるものなんだろうか?

小学校で、学ぶべき感情なんだろうか?

 

ラインを越えてしまったあの子はこの先、小学校最後の運動会を思い返すとき、どんな気持ちになるのだろうか。

何十年も昔のドッジボールのことを思って、息苦しくなる私のようにならなければいいなと、心から思う。

 

それが彼の人生にどんな影響を与えるのか、私にはわからないけれど、自分の子には、できればそんな思いは、そんな経験はさせたくないことだけは確かだ。

少なくとも小学校時代に。

 

 

劣等感、罪悪感、屈辱感、疎外感。

悔しさとは違うそんな思いを、小さな胸に抱え、そして時に、一生取り除くことができない重石にさえなる。

全員リレーやドッジボールが、私はやっぱりどうしても、好きになれない。

 

※ヂをジに直しました。

 

 

 

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