感想文

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もう、次の息は吸わなくていいやって思う瞬間

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タイトルはelveさんの記事の一節。

 

No.1413 楽に死にたい - ダメシ添加大戦

 

 

元記事のタイトルはelveさんのいつもの垂れ流し記事な雰囲気で、油断してたところにこの一節がとびこんできて、急にドキッとした。

 

 

もう、次の息は吸わなくていいやって思う瞬間。

 

後悔するだろうか。何に後悔するかな? そんなこんな全部、「もういいや」って思えて次の息を吸わないのだろうけど。

 

 

わたしは父を自殺で亡くしている。

7年前の3月。

東日本大震災のちょうど1年前の真夜中。

多摩の小さな駅の近く。

父は橋から飛び降りた。

 

 

父を発見してくれた方への遺書には

 

『嫌な気分にさせて本当にごめんなさい。ぼくは世を儚んで死んだわけでも、だれかに恨みがあるわけでもないから、化けて出たり、とり憑いたりしないので、どうか安心してください』

 

 

警察への遺書には

 

『事故ではなく自殺です。誰も関わっていません。』

 

 

そして家族あての遺書には

 

『ぼくは生きることにもう全然、未練も後悔もないから大丈夫。ぼくのことはどうか心配しないで』

 

『知り合いには"酔っぱらって橋から落ちた"と説明してください。誰も疑う人はいません。』

 

 

父は本当に用意周到で、すべては計画されていて、亡くなる10年も前から

『ぼくはいつ死んでもいい』

『どうせ死ぬなら、誰もが許せない凶悪犯を1人撃って死ねたらいい』

『ぼくは生きてることに全く執着がない』

と、ことあるごとにわたしたちに話していた。

 

それはわたしたちに、自殺した自分のことを心配させないための刷り込みだった。

自殺する10年も前から

父はわたしたちに

『ぼくはいつだって次の息は吸わなくてかまわない』

と、思っているんだと思い込ませようとしていた。

 

 

そんな父だから

たとえば父の亡くなる前日に

今まさに飛び降りようとしているその瞬間に

タイムリープできたとしても

わたしには父を止めることができなかったと思う。

 

 

 

だからわたしは

死ぬ死ぬ詐欺をする人が世界で一番大嫌い。

 

 

 

 

 

 

父は足から地面についたらしく

足の骨が粉々に砕けていた。

 

 

 

 

もしかしたら

橋から足を離したあとに

やっぱり生きたいとおもって

着地しようとしたのかもしれない。

 

 

 

おさいふは見つからなかった。

橋に向かう前に

きっとどこかのゴミ箱に捨てたんだと思う。

それは父にとって

生を断ち切るために必要なことだったのかもしれない。

 

 

 

父は飛び降りたことを

悔いているのだろうか?

悔いていないといい。

わたしの思い過ごしであってほしい。

 

 

 

 

父の死は

わたしの人生観を根底からひっくり返した。

 

 

わたしは父の死以来

心の奥底で

命を軽んじている。

自分の命も。

人の命も。

 

 

わたしは

あの日以来

もう、次の息は吸わなくていいやって思う瞬間の連続の中で生きている。

 

 

それは

父が本当にそうであったと思いたいからなのかもしれない。

 

 

だけどわたしがいなくなったら

子どもが可哀想だから今は死なないけどね。

 

 

死ぬのなんてもう全然

怖くも悲しくもなんともない。

 

 

東日本大震災のとき

何人かのお年寄りが

『お墓に非難します』と言って自死したというニュースを聞いたとき

何が問題なんだろうって

別にいいじゃんって

思ってしまったわたしは人として大事なことが欠落している。

 

 

 

 

 

父の遺書の中に

 

『普段着を着せてほしい』

 

って書いてあったのに

うっかり死に装束を着せてしまったことをいまでも後悔している。

 

冷たくなった父には

1度しか触れられなかった。